「ホンダを作った男」日本自動車史の伝説「本田宗一郎」その1

「本田技術研究所の親父」

皆さんは「本田宗一郎」という人物をご存知ですか?
「ホンダ」こと本田技研工業の創立者にして、日本の自動車史のみならず、世界の自動車史にとても大きな足跡を残した人物です。
数年前にヨーロッパで自動車の歴史を振り返るイベントが開催された時、観衆に向けて公開された歴史映像の数々の中に「日本車の躍進」という場面がありました。
しかしそこには日本車は一台も登場せず、宗一郎氏の顔が大きく映し出されたのみ。
それだけ「本田宗一郎」は「日本車の歴史」に大きく関わっていたという印象だったのでしょう。
数々のリコールや4回目のF1挑戦での苦戦でホンダが揺れている今、24年前に他界し、伝説となった創業者について、皆さんに紹介していきたいと思います。

生い立ち

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宗一郎氏は1906年(明治39年)に現在の静岡県浜松市で生まれました。
7歳の時に初めて自動車と飛行機を見たと言われていますが、同じ頃にこの2つの機械を見た事が、後の宗一郎氏の原点となっていたのかもしれません。
1922年(大正11年)には東京の自動車修理工場「アート商会」に入社します。
最初は丁稚奉公として社長の子供の子守から始まりましたが、6年後にはのれん分けを許され、故郷の浜松で支店を開きました。
事業を順調に拡大していたさなかの1936(昭和11年)年6月、多摩川スピードウェイで開催された「第1回全国自動車競走大会」にフォード車を改造してエンジンをフルチューンした「浜松号」で出場します。
「浜松号」は猛烈なパワーと圧倒的なスピードを誇りました。
しかし今で言う典型的な「直線番長」だったようで、コーナリングで車を制御しきれず、前走車に接触して転覆してしまいます。
三回転半した「浜松号」から車外に放り出された宗一郎氏は全治二週間の負傷を負い、翌日の新聞記事になるほどの事故でした。
ところが4ヶ月後の10月には、またもや多摩川スピードウェイで開催された第2回大会に出場して、優勝します。
文字通り「転んでもタダでは起きない」宗一郎氏の負けず嫌いは、この頃には存分に発揮されていたと言えるでしょう。
「ホンダのレーシングスピリッツ」はここから始まっていたのです。
※宗一郎氏の原点である「アート商会」は、「アート金属工業」として現存しています。

アート金属工業株式会社
アート金属工業株式会社www.art-piston.co.jp

本田技術研究所

www.honda-densyokan.com

多摩川スピードウェイでの自動車レースは1938年(昭和13年)に終了し、戦前のサーキットレースの歴史はわずか2年で終わってしまいます。
宗一郎氏も1936年(昭和11年)に自動車用エンジンのピストンリングなどを製造する東海精機重工業を設立し、1939年(昭和14年)にはアート商会浜松支店を従業員に譲って、社長に専念するようになりました。
太平洋戦争が始まった後の1942年(昭和17年)に東海精機はトヨタの資本が入って宗一郎氏は専務に退き、1945年(昭和20年)には三河地震で同社の浜松工場は倒壊してしまいます。
宗一郎氏は所有していた同社の全株式を売却して「人間休業」と称する休養期間に入り、その年の8月に太平洋戦争も終わりました。
日本も宗一郎氏も、一から出直しとなったのです。
そして1946年(昭和21年)10月、39歳の時に「本田技術研究所」を浜松で創業しました。
※終戦の年まで宗一郎氏が関わっていた「東海精機重工業」も、「東海精機」として現存しています。

東海精機株式会社
東海精機株式会社www.toukai-seiki.co.jp

愛称「バタバタ」

www.honda.co.jp

本田技術研究所の第一歩は、旧日本軍の無線機用小型ガソリンエンジンを、自動車用補助動力として販売するところから始まりました。
まだ自社で自動二輪車や原付自転車を製造する前の段階です。
エンジンと、それを動力として自転車に接続する装置を販売し、自転車屋でそれを組み付けていました。
この補助エンジン付き自転車は正確には「モペット」と呼ばれ、現在でもペダル付きの原付自転車や自動二輪車として販売されています。
当時の太く重いフレームの自転車に据え付けられた補助エンジンは、その独特の騒音から「バタバタ」と呼ばれました。
こうした補助エンジンの販売は全国各地でさまざまな事業者が行っており、その中から数々のオートバイ業者、それに自動車業者が登場する黎明期となりますが、本田技術研究所もその一つとなるのです。
1947年(昭和22年)には、初の自転車補助用オリジナルエンジン「ホンダA型」の生産、販売を開始しました。
これが本田技術研究所としては初のヒット作となります。

その頃の宗一郎

www.bs-j.co.jp

この頃の宗一郎氏はどんな人物だったのでしょうか。

「親父(宗一郎氏)は工程に何か不具合があったり、従業員が言う事を聞かなかったりすると、怒鳴る殴るは当たり前。下手するとスパナが飛んでくる。」

要するに、昔ながらの職人気質そのままな技術者だったのです。
しかし、名もない零細事業者でありながら、新設したエンジン工場にいち早くベルトコンベヤー式の生産方法を取り入れていました。
宗一郎氏は、近代的な生産技術に理解のある新世代の経営者でもあったのです。
そんな新旧混合の価値観という、矛盾の塊のような宗一郎に率いられた「本田技術研究所」は1948年(昭和23年)に「本田技術工業株式会社」の看板を上げます。
そしていよいよ、戦後再開する日本のモータリゼーションに殴り込みをかけていくのでありました。

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